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セイタカアワダチソウ [アトリエN]

 戦後間もなく生まれた私が物心ついた頃、故郷の熊本の町には”オンリーさん”と腕を組んで歩くアメリカ兵の姿が見られた。
 やがて中学生になった頃(だったと思う)進駐軍は引き上げて行ったが、傲然と居座り続けたのが、アメリカ原産のセイタカアワダチソウであった。
 照りつける夏の太陽をものともせず、2~3mもの高さに茎を伸ばし、在来のススキを駆逐して野に山に、河原に空地に、陣地を拡げていったこの雑草は、決して日本人には好まれない存在であったと思われる。
 その佇まいがあまりにも猛々しいうえに、食用にも、薬用にもならない。泡が立つように白い綿毛を飛ばす有様は、見ていてむしろ鬱陶しい。
 しかし、もっとも嫌われた理由は、去って行った占領軍(日本人はそれを進駐軍と言い換えた)に代わり、敗戦(日本人はこれをも終戦と言い換えた)を、いやでも想起させる植物だったからではないのだろうか?
 花粉症の主犯だと見做されたこともある。
 風で花粉をばらまく風媒花ではないことがわかって、その嫌疑は晴れた。だからと言って好感度が増したわけではない。
 一株で四万粒もの種子を生産するこの草は、根から他の植物の発芽を妨害する物質(DME)を分泌して大群落を作る。
 しかし、近頃はどうも様子が変わってきたようだ。なな山のバス道路沿いでもせいぜい1メートルほどの高さで小群落を作り、つつましく咲いている。駆逐したはずのススキにもちゃんと場所を譲り、そのススキよりも余程丈低く身をすくめている。
 場合によっては法を犯してまで勢力拡大に狂奔した新興の企業が、やがて業界大手と言われるような存在に成長すると、一転して自他ともに許す優良企業となってお行儀よくおさまりかえる。そんな姿と重なってしまう。
 DMEによる自家中毒で勢いをなくしてしまったというのが真相らしいが、あるいは、戦後半世紀以上が経って、ようやく日本の風土になじみ、《空気を読む》術(すべ)を身につけたのかもしれない。むしろ、こちらのほうが当たっているように思えるのだが、どうだろうか? 
 それに引き替え、北米に侵入した日本のススキは、いまや外来雑草として大問題になっているそうだ。
      N田さん

セイダカアワダチソウ.jpg
セイダカアワダチソウ。提供:「写真素材足成」(www.ashinari.com)


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キビダンゴ [アトリエN]

 ♪も~もたろさん、ももたろさん、おこしにつけたキビダンゴ ひとつわたしにくださいな♪と始まる桃太郎の歌。
 桃からうまれた桃太郎がイヌ・サル・キジをお供につれて鬼退治に行くこの物語を、現代の子供たちは知っているのだろうか? はるかな昔に少年だった私が無批判に受け入れたこのおはなしは、今にして思えば少年の自立への旅立ちをテーマにした寓話だったのかもしれない。
 植物にとって、自立への旅立ちとは、芽生えであって、おそらく植物の一生にとって最大のイベントであり、膨大なエネルギーを要するものであろう。
 それゆえ、多くの植物が親からそのエネルギーをもらう。桃太郎におけるキビダンゴである。イネや麦にとっては炭水化物、豆類は脂質とタンパク質の形で。米粒ひとつをとってみても、いわゆるご当人にあたる胚芽の何十倍ものデンプンを親から「お弁当」としてもらうのだ。形からいえば、胚芽は炭水化物の塊に張り付いているに過ぎない。
 しかし、親からお弁当を貰えない植物もある。ランの仲間がそうである。
 それでは、ランの種子たちは、一体どのようにして発芽のエネルギーを獲得するのだろうか? 実はカビなのだそうだ。
 ランの種子に感染したある種のカビが、すっかりそのカラダを覆い尽くした頃、ランは突然仮面をかなぐり捨て、そのカビをエネルギー源にして発芽するのだ。カビにとってはとりついたと思った相手に逆にとりつかれたことになる。奴隷だと思っていた相手から反乱(蘭!)に逢ったようなものだ。
 さて、冒頭の桃太郎の話に戻るが、「お腰につけたキビダンゴ」ごときで絶海の鬼が島まで渡れるものだろうか? お供のイヌ・サル・キジの食事の面倒までそのキビダンゴでみるのである。絶対に無理な話ではないか。
 そこでわたしは気が付いたのである。
 実は桃太郎こそが鬼で、絶海の孤島どころか、山ひとつ隔てた隣りの村に略奪に行ったのであろう、と。
 なにしろ桃からうまれた少年である。
 異形の者なのだ。
      N田さん

桃太郎.jpg
 
 

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ハガキの木 [アトリエN]

古代インドでは多羅樹というヤシ科の木の葉を経典の記録用に使っていたそうだが、アフリカ原産の木であるため中国や日本では育たず、代わりにモチノキ科の木の葉をタラヨウと名付けて使った。釘や爪楊枝など尖ったもので葉を傷つけると、タンニンがしみだしてきて空気と反応して黒く浮き上がる。
これは傷口の修復反応で、ヒトにおけるカサブタである。昔はこれで手紙をやり取りしたことから、今日でも「ハガキの木」として郵便局のシンボルツリーとなっている。
東京駅前の中央郵便局や京都郵便局など各地の主だった郵便局にはこの木が植えられていて、それだけでなく、この葉に文字を書き、定形外の切手を貼れば実際にハガキとして送ることができる。
タラヨウの葉でなければならないというわけではないが、9×12センチ以上という制限があるので、同じように文字が書けるトウネズミモチの葉などでは難しいようだ。
そこで埼玉の山道で採取したアオキの葉でハガキを作り、切手を貼って送ってみた。友達の少ない私であるから、送り先は自分自身である。
一週間たったが、ハガキは届かない。
ははあ、郵便局員が首をひねっているのかな、と思っていたら、十日ほどして、やっと届いた。我ながら、なぐり書きの雑な出来で、とても人様の観賞に耐えうるものではないが、とりあえず葉っぱがハガキになるということは証明できた。
葉書というくらいだから、当たり前だろ?
いやいや、葉書というのは当て字で端書というのが正しいそうである。
葉っぱのほかに宮島のしゃもじ・摩周湖の霧の缶詰などもハガキとして送れるそうだが、しゃもじはともかく、摩周湖に行ったことのない私には、霧の缶詰なるものがどんなものなのか、見当もつかない。
このタラヨウ、神社などによく植えられるのだが(多摩地方ではあきるの市の広徳寺が有名)、葉を火であぶって浮かび上がる模様で吉凶を占うという風習があるらしい。
そういえば我が家に配達されたアオキのハガキ、もう一か月もたって一面に黒い模様が浮かび上がり、文字を読むこともかなわないが、この模様、何か意味があるのだろうか?
ちょっとドキドキしている私であります。
     N田さん

タラヨウ・中央郵便局.JPG
タラヨウ・中央郵便局

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アオキの葉ハガキ宛名面

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アオキの葉ハガキ文面


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ゴンズイ [アトリエN]

「親父こそ自分のことが一番わかってないじゃないか!」
ちょっとした諍いのはてに、こう言い放って家を飛び出した息子の後姿をにらみつけながら、握りしめた拳をふるわせてN氏は立ち尽くしていた。
“自分の事は自分が一番わかっている” と、鼻息荒くわが道を歩んできたN氏。だが、実はそれもどうやら勘違いだったと、心ひそかに思い始めていた矢先の痛烈な捨て台詞。

古来稀なりと云われている年齢(よわい)を目前にしてそれを認めるのは、かなり辛いことである。
視線の先には暗紅色の実をつけた樹が雑木林の中で秋の雨に濡れてくすんでいる。
「ゴンズイ」なまず目の海水魚。背鰭と腹鰭に毒棘を持ち、釣り人からは外道と忌み嫌われる。「ゴンズイ」ミツバウツギ科の落葉性小高木。牧野富太郎博士は「役に立たないところから魚のゴンズイの名前があてられた」と説いている。
妻は20年も前にさっさとあの世に逃げて行ってしまった。晩(おそ)くに生まれた一人息子は家に引きこもっている。会社を定年退職してからは、近隣との付き合いもなく、話相手もほとんどいない。
鬼の部長として部下を叱り飛ばしていたかつての企業戦士も、一介の老爺となってしまえば濡れ落ち葉にひとしい。
次の日、朝から秋晴れとなった。
深夜に帰ってきた息子が起きてきて、玄関前のN氏の隣に立つ。
「きのうは言い過ぎた。ごめんな」
「ああ?うん」
ぎごちなく仲直りをする親子。
秋の陽に照らされたゴンズイの実は、鮮やかに輝いてルビーの房のようだ。
「こうやってみると、結構きれいじゃん」
「魚の方も食えば旨いそうだ。今度釣りにでもいくか」
「うん・いいね」
久しぶりに父子のおだやかな会話が続いている。
N田さん 「なな山だより」38号より

ゴンズイ_魚.png
ナマズ目 ゴンズイ

ゴンズイ_花.png
ゴンズイの花言葉:一芸に秀でる


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てっぺん童子(わらし) [アトリエN]

大抵の山の樹冠にはてっぺん童子がいる。
人には見えない。ごくたまに、小さな子供がその姿を目撃することがあるが、まわりに相手にされないでいるうちに、いつしか見たことも忘れてしまう。
何のためにてっぺん童子は存在するのだろうか?それは本人にもわからないし、まわりにもわからない。
てっぺん童子は、なんにもしない。
病気にかかった樹木の面倒を見ることもないし、タヌキやモグラが傷ついて苦しんでいても、手を差し伸べることもない。
晴れた日には一日中、樹冠の上で空を見上げ、さまざまに形を変える雲を眺めていたり、風の強い日には激しく揺れる木の葉にしがみついて、ロデオ乗りを楽しんだりする。
てっぺん童子の苦手は雨降りである。
そんな日には、木の洞をみつけてもぐりこみ、一日中じっとしている。濡れたからといって別にどうということも無いのだが、嫌いなものは嫌いというほかはないようだ。
秋が深まり、落葉樹の葉達は黄色に赤に、色づき始めた。「離層」によって樹木本体から切り離され、水分や栄養分の供給をカットされた葉達は、土に還る準備を始めたのである。
 「そろそろお別れだね」と、てっぺん童子が話しかける。
 「うん、そうだね」と、葉達が返す。
 「君たちは地面に落ちたら、どうなるの」
 「ちいさな虫や、もっとちいさな生き物に粉々にされて
 しまうのさ」
 「ふうん、それから先はどうなるの?」
 「うんとうんと小さくなって、いろんな生き物の体の一
 部になるのさ。虫や花や、草や木や、ひょっとしたらも
 う一度この葉っぱになれるかもしれないねえ」
 「ふうん、いろんなものになれるんだねえ、うらやまし
 いな、僕もいろんなものになりたい」
 「君はずっとてっぺん童子さ」
 「どうしてだい?」
 「君は死なないからさ」
葉達は散ってしまった。独りになったてっぺん童子は退屈である。
もしもあなたが森を散策中に頭の上にドングリが落ちてきたら、それはてっぺん童子のいたずらかもしれない。
くれぐれも、ヘルメット装着を忘れずに。
N田さん 「なな山だより」39号より
ドングリ.png

このコーナー「アトリエN」は会員N田さんの投稿を掲載する場所です。ほのぼのとして夢広がるエッセイを楽しめるでしょう。当初は「なな山だより」からの転載となりますが、初出が増えていくはずです。不定期のアップになりますが、是非ご期待ください。


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